『父に聞いた戦後』を書き始める

2月25日(木)

(山田風太郎が部屋にいってみると)「柱にもたれかかったまま、あぐらをかいて、眼をつむっていた。涙が二すじ頬にひいていた。」

信州・飯田の疎開先で、「玉音放送」(ポツダム宣言受諾=無条件降伏の詔)を聴いた直後の亡父の様子。
(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和20年8月16日条より)

当時、東京医学専門学校(現:東京医科大学)2年生(21歳)。

そうだろうな。
激昂せず、困難になるほど沈着冷静になるタイプだし、敗戦の不可避は東京が空襲で焼け野原になった段階で察していたようだし。
ただ、父親(私からすると祖父)は、連合艦隊軍医長として戦死しているわけで、当然ながら複雑な思いがあったろう。

ともかく、亡父の戦後の苦難は、ここから始まる。
それをこれから、『父に聞いた戦後』として、私なりに書いてみようと思う。

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