日本近代ファッション史の理解

6月15日(月)

今日は、美容院(カラーリング)に行く予定だったが、体調がイマイチなので、家でぼつぼつ仕事。

7月11日(京都女子大)のデザイン史学研究会第13回シンポジウム 「スーツと着物―日本のモダン・ファッション再考」の報告「 和装のモダンガールはいなかったのか? ―モダン・ファッションとしての銘仙―」に取り掛かる。

まず、日本近代ファッション史の理解について。
和装、洋装の2つの流れが併存してきたのが実際であることは、誰でもわかることだと思う。
比較的早くに和装から洋装への転換が進んだ男性に対し、女性の洋装化の進度は緩やかだった。
女性の日常生活着が(高齢者を除いて)ほぼ洋装メインになったのは、東京においては、高度経済成長期の1960年代半ばと考えていい。
逆に言えば、それまでは和装の流れがずっと続いていたし、現在でも、かなり細い流れになったが続いている。

なのに、日本近代ファッション史では、しばしば、和装と洋装の流れが接続され、和装が洋装にとって代わられたイメージが語られる。
そして、和装から洋装への転換の画期として1920年代の「モダンガール」の出現が語られる。
もっと極端な場合、1880年代の「鹿鳴館」の洋装から日本近代ファッション史が語られるパターンもある。
日本近代ファッション史が洋装化の歴史として語られ、その結果、洋装化以降の和装の歴史(近代和装史)が抹殺されてしまう。

ところが、1925年(大正15)の銀座における調査では、女性の衣服は、和装99%に対して洋装はわずか1%だった(今和次郎『考現学入門』)。
時代が下るにつれて洋装が増加したと思うが、それでも1920~30年代の東京の女性ファッションは、圧倒的に和装主流だった。

女性の和装を細かく見ると、銘仙55.5%、木綿16%、お召12%…で、絹織物(銘仙+お召+錦紗)の比率は68.5%となる。
この時代が、銘仙を中心とする大衆絹織物の全盛期であったことが、数字的にもはっきり出ている。

まず、前提としてこの話をして、その後に、銘仙のモダン・ファッション的性格を語ることになる。
問題は、与えられた時間が30分しかないということ。
どの画像を見せたら、効果的なプレゼンになるか、材料が多すぎて悩む。
やっぱり、こんなところかな・・・。
銘仙28-1.jpg銘仙43-1 (2).jpg
銘仙26-5(2).jpg銘仙6-6.jpg

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